【映画】388感想

388

映画「388」の感想です。

『CUBE』で有名なヴィンチェンゾ・ナタリ監督が製作総指揮を務めるサスペンス・スリラーです。

『CUBE』が私は好きで、特に『CUBE2』の超立方体の内部で時空が歪む内容は、好奇心がくすぐられるものがありました。
それでこの監督のことはすごく覚えています。
その後の『ナッシング』なんかは、存在自体がスリラーで「どうしてこうなった!!」と言わんばかりの作品なので、その後の作品を期待していたところの『388』でした。

 

■ストーリー(シネマトゥデイより http://www.cinematoday.jp/movie/T0015729
高級住宅街アレッタ通り388番地に屋敷を構える、ジェームズ(ニック・スタール)とエイミー(ミア・カーシュナー)の夫婦。ひょんなことからエイミーとけんかをしたジェームズはそのまま仕事に出るが、帰宅してみると彼女は「頭を冷やしたい」という書き置きを残して姿を消していた。 不安に駆られ、家族や友人に連絡するも、誰もエイミーの所在を知らないという。ジェームズ一人が残された家では、窓ガラスが割られたり無言電話がかかるように。やがて、ジェームズはパソコンの画面に拘束されたエイミーの姿を見つけ……。

 

細かい内容や説明は他サイトやレビューにお任せするとして、私がこの映画を見て感じたことは 「窮地の時に、いかに信用してもらえるか」 というテーマでした。
主人公にしてみると「妻が消えた!」なわけですが、他の人から見ると書き置きもあり、単にケンカのもつれから家出をしてるだけのようにも見えるわけです。で、主人公のとった行動はあまりほめられたものでなく、仕事は手がつかない(これは同情できる)、妻の妹の家には怒鳴りこんで「かくまっているんだろう!」、さらには昔いじめていた相手に会いに行って「復讐だろう?」と問い詰める。
みずから孤立するような行動で、犯人に追い詰められていきます。 ここを犯人は非常にうまくついてくるわけで、そういう行動をとる人を標的にしているとも言えます。 最初に妻の妹に、ちゃんと事情を説明していれば、最悪の事態は避けられたように感じます。
私としては、自分の居場所が無くなっていくような、誰にも信用されない状態というのが、世にも奇妙な物語的な日常に潜む「怖さ」と感じました。

【映画】デビルズ・ダブル 感想

devil

デビルズ・ダブル(原題: The Devil’s Double)を観ました。
ネタバレ含みます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■あらすじ

舞台は湾岸戦争前後のイラク、バクダット。
サダム・フセイン政権下におけるその息子ウダイは、その権力によって好き勝手し放題であった。
そしてある時、自分の影武者を用意することを思いつく。

選ばれたのは高校時代の同級ラティフ。
当時も双子とからかわれるくらい二人は似ていた。

自分の存在を消すことを最初は拒むものの、拷問や家族を人質にされ、ラティフは影武者(周囲にはウダイの弟とも言っている)と なり、ウダイの狂気に巻き込まれていく…

 

■感想

主演がドミニク・クーパーという方なのですが、ウダイとラティフの1人2役はかなり驚きました。
途中で「影武者なのに似てねぇな。」という感想が出てくるくらい、 演じ分けがきちっとされていて、圧巻でした。

ウダイ:好き勝手し放題、高めの声 、おちゃらけ、嫌な笑み、演説の時は酔っぱらい、泡を吹きながらしゃべる
ラティフ:比較的落ち着いている、 渋い声、ぴしっとしている、シラフでも演説可

さらに、ラティフが影武者としてウダイの代わりをしている場面でも、どことなくラティフ感が漂います。
怪演という触れ込みにも納得です。

ストーリーとしては、当時のドキュメンタリーを見たような観後感でした。
一人二役が見れただけで、満足です。
どうしてウダイはあんなにめちゃくちゃになってしまっているのか、というのは未だに疑問です。
(努力せず権力を握ると、だめだってことでしょうか)
ウダイの行動は常軌を逸していて、グロや胸糞悪い描写も含まれるので、苦手な方はご注意下さい。

 

※実際にラティフさんが書かれた自伝が原作のようなのですが、来日した際のインタビュー記事もありました。

『デビルズ・ダブル』原作者の告白「ウダイを殺れなかったのが心残り」(前編)
http://www.cyzo.com/2012/01/post_9531.html

 

【映画】KOTOTO 感想

kotoko

ちょっと遅いですが、KOTOTO(http://www.kotoko-movie.com/)の感想です。
ネタバレ前提で書きますので、まだ見ていない方などはご注意を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一言で言うと「衝撃」でした。
coccoであの内容なので、ぴったりというか、
見た後の消化のできなさといったら、今までにないくらいです。
もやもやしながらその日の夜は眠りました。

しかし、次の日くらいにようやく自分でも納得できる解釈を見つけました。
(ただ、後から考えると無理やりだなぁという感は否めないのですが)
SF超能力的な見解です。

主人公はタイムリープしている説

これに思い当たりました。
ジョジョで言うところのキング・クリムゾン バイツァ・ダストのように
時間を操る能力を持っている、と。

しかし、そんな描写はありませんね。
ではひとつ、仮説を立ててみます。

時間を操る能力を持っていながら、
自分では意識せず能力を使っているのではないか と。

この映画が主人公の主観的な映像ということに注目して下さい。

例えば、ある事件が発生したあと、無意識に時間が巻き戻り、
今度は事件が発生せずに時間が経過したとします。

すると、
・事件が発生した現実
・事件が発生しなかった現実
とが脳内で重複して記録され、認識として「ダブリ」が
発生するのではないか、という仮説です。
自分でも無意識で時間が戻ったりすることで、
ある種の混乱が発生してもおかしくありません。

 

…いくつかのシーンで検証してみましょう。

まず、冒頭の2人の同一の人が見えて、片方が襲ってくる場面。
これがまさに「ダブリ」だと考えられます。

何らかの理由※1で日常的に危険にさらされていて、
身に危険が迫ったときに、無意識にタイムリープを発動。
世界線が変わったため、今度は身に危険が及ぶことなく
過ごすことができる、という感じです。

※1例えば超能力者ということが世間的にバレていて、その能力の利用を企む組織に狙われているとか、
ちょっとテレビの見過ぎですね。 

また、ラストのおもちゃ箱がひっくり返ったような
ファンタジー世界、あれば今までは「自身の身の危険」が
能力のトリガーだったものが、自分の意図、願いにより発動させることが
できるようになった描写なのではないでしょうか。

一番気になる描写は、うろ覚えなのですが、
主人公は拉致される描写があったかと思います。
あれにすごい違和感を覚えていたのですが、
この仮説に当てはめると、まさに「能力を狙う組織」の図が見えて
納得できます。

そしてラストの施設は、能力者研究所で身柄を確保されている状態、
息子は「コントロールできる能力者」として研究所で訓練を受け、
その帰りに母に会っていると。
そこまで考えるのは飛躍しすぎでしょうか。

 

いかがでしょうか?
超能力をコントロールできない人の悲劇を描いたのがこの作品、
という解釈です。
監督の意向や、本作品の趣旨にはそぐわないかもしれませんが
「この考え方もありかも」と思っていただけたら幸いです。

PS:僕自身が筒井康隆の七瀬3部作をちょうど読んでいる最中だったので、
おおいに影響を受けているかもしれません。